このところ東京五輪エンブレムに関連して、我が事のように心を痛め、落ち込んで見えるデザイナーの方を見かけます。デザイナーの仕事は目に見えるものだけでなく、たくさんのプロセスを経ていますが、それはなかなか伝わらないものです。しかしそれはある意味当たり前のことだと思うので、その事を書いてみます。
プロと素人の違い
例えば友人宅でケーキを出されたとき、プロのケーキなのか、友人の手づくりなのかで反応が大きく変わります。「ケーキを作る」という工程は同じなのに、プロのケーキを見てもそのことを想像することはあまりありません。自分の想像の及ばない範囲で行われていることは、まるで「魔法」の様に感じます。
そのケーキがおいしければ「お店が出せるよ」なんて言ったりもします。ではプロと素人の差はどこにあるのでしょうか。
おいしいケーキができた!という結果は同じでも、プロと素人にはこれだけの差があると思います。しかし、わたしには出されたケーキのおいしさしかわかりません。このことを思うと、今回デザインに従事する方以外からたくさんの「なぜ?」という疑問や批判が出てきたことはとてもよく理解できますし、国民投票にしてはどうかという意見や、「自分が作るなら」というロゴがプロアマ問わずたくさん出てきたのも納得です。(わたしは作って発表する事には賛成です)
「デザイン」という作業は非常に見えにくいもので、見えている部分だけで見ると形や色に傾倒していると思われがちです。また、デザインは幅広く、思考が大事なものから、見た目のインパクトが大事なものまで様々です。それを「理解されない」と嘆いたり「デザインをわかってない」と逆に批判することは良いことだと思えません。
インターネットは瞬間が切り取られる
例えば友だちとの会話の中であれば、声が消えると共に他のひとの耳には届きませんが、インターネットでは積極的に削除しなければいつまでもそこにアーカイブされていくものです。そして常に新しいものが見えているというわけでもなく、目にした瞬間が「その人の今」に感じるものです。
インターネットに触れる仕事をしていると、良いもののアーカイブで恩恵を受ける事はありますが、反対にアーカイブされていく悪意に辟易する事もあります。しかし私はインターネットが好きなので、それを全てインターネットのせいにしたくはないなと思います。今回、佐野研二郎さんは「様々な嫌がらせを受けた」というように書いていらっしゃいますが(MR_DISIGN)それはインターネット云々以前に、許されないことです。
批判が大きく見える理由
今回に限らず、「みんながNOと言っています」「多くの人が批判しています」というような言い回しはよく見られます。もちろん良いことのときにも使われる表現ですが、どちらかと言うと批判的な意見によく使われると感じています。
インターネットとのつきあい方はそれぞれで、その規模感は人によって違います。親しい友人の数人としかやりとりしていない人、何千人もフォロアーや友だちがいる人。「みんなが」「多くが」というのは具体的な数字ではなく、その人の世界の大きさと相対的なものです。「(わたしのまわりの)みんなが」「(テレビで見た)多くの」という注釈がつくと思います。そしてそれを感じているのは「その人個人」です。もちろん、わたしのこの記事も「わたし個人の意見」です。
まとめ
今回の騒動では様々な要因が混ざり合い、好き嫌いや権利や選考や、全てがごっちゃになって語られていたように感じます。「今回の件でデザイナーの仕事というものに傷がついた」というようなデザイナーからの批判も見られましたが、私としては「デザイナーの仕事」自体が一般的でなく見えにくいものであった、という事に気がついた一件でした。それを嘆くよりも、どうやってデザインの価値をわかりやすく伝えていくのか、そういうところに注力していけたら、今後こんな事があったときに活かしていけるのではと思います。
この騒動でなんと3つも記事を書いてしまって、いい加減飽き飽き…な方にはすみません。しかし上に書いたように、インターネットはアーカイブされていくものです。いつか何かの折に、誰かの役にたつかもしれない。「当たり前」と言われる事でも残したい、と思うこともあって、また書きました。
落ち込まず、前向きに、いいもの作っていけるように頑張りましょう。