デザイナーのわたしが、好きだった絵をいつの間にか描かなくなって、再び描くようになった話

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昨日描いてTwitterに投稿したマンガ「デザイナーのわたしが、好きだった絵を描かなくなった理由と、再び描くようになった理由」が、かつてないスピードでのRT、特に引用RTで「わかる」「同じ」というコメントをたくさんいただいた。それはイラストやデザインだけでなく、雑貨や建築やコピーや音楽など、いろんなジャンルの方からのコメントだった。こういうマンガは、「じぶんの想いを伝えたい」気持ち半分、「受け手が考える余地」をフィードバックしてもらえる面白さが半分。わたしの言いたかったことを、少しだけお話ししようと思う 。

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Twitterにアップしたマンガ

ツイート「デザイナーのわたしが、好きだった絵を描かなくなった理由と、再び描くようになった理由」
ツイートへの反応

人は「卵かけごはん」か「フランス料理」を選ばなければいけない

唐突だが、子どもの頃から卵かけごはんが好きだ。卵とあたたかいごはん混ぜてお醤油を垂らす、完璧においしい、ずっと飽きない。誰にでも、「じぶんを構成するソウルフード」がきっとあるはず。対して、物心ついてから習得した「人に出すためのフランス料理」。 人は職を選ぶとき、このどちらかを選んでいると思う。

「好きなことは仕事にしないほうがいい」というのは、シーンによって様々な意味はあるが、わたしは「卵かけごはんを人に出せるか」ということだと思っている。

じぶんの大好きな卵かけごはんを「生卵なんて気持ち悪い」と言われるのはとてもこわい。もしかしたらニーズに合わせてネギをのせるかもしれない、海苔をまぶすかもしれない。それでもその「卵かけごはんを愛す覚悟」はあるのか。

わたしはフランス料理を選んだ

わたしはフランス料理、すなわちデザインを選んだ。デザインは、わたしの中にあったものではない、学校や先輩に教わって習得したものだ。さらに受託の場合は、伝えるべきはクライアントのこと。不味いと言われても、それは方法が悪かったのであって、わたしが否定されているわけじゃない。そうじぶんに言い聞かせて心を強くしてきた気がする。

デザインを選んでからの「楽しさ」は、「作る楽しさ」ではなく「達成感」に変わった。お客さんが喜んでくれる、PVが上がる、デザインは「何か」を達成するための手段である。理由もなく作るものは「デザイン」ではない。そうして、理由がないと何も作れなくなっているじぶんに気がついた。

最近になって、デザインは「理論」と「感性」によって成り立つと考えるようになった。「理論」は、料理で言うところの科学的な部分で、感性は「食感、香り、見た目」といった体感として蓄積されていくもの。いまのじぶんは「理論」に寄りすぎでは、と気がついたのがここ数年のこと。デザインは感性じゃない、という言葉に勝手に視野を狭くしていた。

いや、磨いてもいいじゃない感性、たのしーおいしー!でものを作る体験から得たものは、きっと武器にできるはず。別に、「子どもの頃の感性、大事にしましょうね」とかいう懐古主義な話ではない。もしあなたの心に卵かけごはんがあるなら、それはきっと他の人とは違う。

また卵かけごはんをはじめた

わたしはまた絵を描きはじめた。少し溜まったのでポストカードにもしてみた、そしたらまーーこれが売れない。正直これは落ち込む、しかし、リサーチも何もせずわたしが好きだけで描いているんだから当然の結果だった。このブログもそうだが、人にじぶんを評価されるのは良くも悪くも楽しい

「デザイナーも発信すべき論」が出て久しいが、それでも苦手なデザイナーは多い。「何かを伝える代弁者」に徹した結果、黒子に徹してしまい「じぶんを伝える」という視点がなくなってしまうから、というのも一つの原因。デザイナーも「じぶんを売る」体験をしてみるといいかもしれない。最近の技術界隈の同人誌ブームを見ていると、とてもワクワクする。第三者目線でお得意の分析からやっていけば、何をすべきかきっと見えてくる。

ニーズに応えるのは媚びるということではない、デザイナーを経ていまやっとそこが見えてきたのかもしれない。これからわたしは、じぶんの「卵かけごはん」がどうやったらおいしくなるのか考える。きっとネギも海苔ものせる。たまに凝り固まった頭を緩めて、好きなことをジタバタやるだろうし、しんどくなったら離れる!そこにまた学びがあればいいと思う。

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